兼六園の歴史

兼六園の名付け親と六勝

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兼六園ってどんな意味?。

「兼六園」、六を兼ねる園って、どういう意味でしょう?。

「兼六園」の名付け親も、加賀藩主ではない意外な人物です。

兼六園の六勝

「兼六園」とは、漢字を見ると、”六つを兼ね備えている園”という意味です。

兼ね備えている六つのものは、「六勝(ろくしょう)」と呼ばれるものです。

六勝って何でしょう?。

中国、宋の時代の季格非(りかくひ)の書いた「洛陽名園記(らくようめいえんき)」の一節より。

「洛陽名園記」の一節

「園圃(えんぽ)の勝(しょう)、相兼(あいか)ねる能(あた)わざるは六。

宏大(こうだい)を勤(つと)むれば、幽邃(ゆうすい)少なし。

人力(じんりき)勝(まさ)るは蒼古(そうこ)乏(とぼ)し。

水泉(すいせん)多きは眺望(ちょうぼう)無し。

この六を兼ねるは、ただ湖園(こえん)のみ。」

簡単に訳すと、

庭園が名勝と呼ばれるためには、兼ね備えることが容易ではない相反するものが六つある。

宏大(こうだい:広く大きい場所)にしようとすれば、
幽邃(ゆうすい:静かで落ち着いたたたずまい)が損なわれる。

人力(じんりょく:人の手で作られた人工美)が過ぎれば、
蒼古(そうこ:手付かずの古さ)が損なわれる。

水泉(すいせん:水が豊富であること)を望めば低い場所となり、
眺望(ちょうぼう:見晴らし)が悪くなる。

この六を兼ねていたのは、湖園という庭園だけだった。

という意味。

兼六園は、この相反する六つが備わった名園ですよ、という意味なのです。

六勝の表わす場所

宏大(こうだい)、幽邃(ゆうすい)、人力(じんりょく)、蒼古(そうこ)、水泉(すいせん)、眺望(ちょうぼう)、は六勝と呼ばれています。

六勝を表す場所は、園内にちゃんとあります。

宏大(こうだい)が千歳台、

幽邃(ゆうすい)は常磐ヶ岡~ひさご池の林、

人力(じんりょく)は、曲水や大きな池、築山、

蒼古(そうこ)は、常磐ヶ岡の白龍湍(黄門橋下の曲水)や山崎山の曲水の流れ、

眺望(ちょうぼう)と水泉(すいせん)は、海抜53mの高台にあり見晴らしがいいのに水が豊富、

というところです。

園名の由来は、パンフレットの裏に沿革(えんかく)として簡単に説明されています。

また、真弓坂料金所の前にある六角形の石碑には、園名の由来が刻まれています。
(ほとんど読めないけどね)

兼六園の>名付け親は誰?

「洛陽名園記」の一節を引用して、「兼六園」と名付けたのは誰でしょう?。

名付け親は、白河楽翁(しらかわらくおう)という人物です。

白河楽翁とは隠居後の名前で、隠居前の名前は、松平定信(まつだいら さだのぶ)。

暴れん坊将軍こと徳川吉宗(とくがわ よしむね)の孫、松平定信です。

松平定信(さだのぶ)は、陸奥白河藩(福島県)の三代藩主で、幕府の老中主座(今の総理大臣)を勤めた人物です。

絵画や書に秀で、当時トップクラスの風流人として有名でした。

加賀藩十二代藩主、前田斉広(なりなが)は、隠居屋敷として竹沢御殿を作ります。

竹沢御殿と庭園をいたく気に入った前田斉広(なりなが)は、
1822年、隠居して白河楽翁と名乗っていた有名人、松平定信に、園名の命名を依頼したのです。

竹沢御殿と兼六園

兼六園の扁額(へんがく)

命名を依頼された白河楽翁(松平定信)は、「洛陽名園記」から一節を用いて「兼六園」と命名し、
自ら筆をとって「兼六園」と揮毫(ごうき)した扁額(へんがく)を加賀藩に届けています。

案内人
案内人
扁額(へんがく)とは、建物や門の高い場所に看板のように掲げてある額みたいなもの。神社の鳥居やお寺の門にある額も扁額の一種です。

届けられた扁額は、竹沢御殿の表門に飾られていました。

表門は取り壊されましたが、「兼六園」の扁額は、伝統産業工芸館に残っています。

パンフレットの表紙を飾っているのは、この時に届けられた扁額です。

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