金城霊沢(きんじょうれいたく)
金城霊沢は、兼六園管理事務所(旧 津田玄藩邸、武家屋敷)の横にある、湧き水の湧く沢です。
柵に囲まれた中にある丸い井戸は外径1.76m、深さ2m。
井戸の周りの敷石は越前石で作られ、まっすぐな碁盤目模様ではなく兼六園特有の四半模様(斜めの筋交い模様)になっています。
金城霊沢のお役目は?
金城霊沢は、元々自然の沢でした。
竹沢御殿を作った殿様、十二代藩主、前田斉広(なりなが)が、1822年に鎮守として金沢神社を作る際に整備したものです。
「金城霊沢」の扁額(へんがく)は、十二代藩主、前田斉広(なりなが)の筆によるものです※。
※兼六園管理事務所監修の「兼六園」によると、扁額は市川米庵(いちかわべいあん)の筆、武田友月が彫ったものとあります。
沢には屋根が作られ、注連縄(しめなわ)と紙垂(しで:白い紙)で囲まれています。
祀られて大事にされているだけではありません。
金沢市で行われる「百万石祭り」の初日には、金城霊沢のお水を汲む「お水取り」の儀式を行い、お茶を点てて振舞われます。
その際、
兼六園の時雨亭の横(梅林)に、加賀藩前田家の梅鉢紋の天幕が張られたお茶室が(一時的に)作られます。
「百万石祭り」にお越しの際に、ちょっと梅林に寄ってみてはいかがでしょう?。
金沢の地名の由来
金沢という地名の由来にはこんな話があります。
金城霊沢がまだ自然の沢だったころ、
山科(やましな:金沢市山科)の里に、藤五郎(とうごろう)という百姓がいました。
藤五郎が沢で自然薯(じねんじょ)を洗ったところ、泥に砂金がたくさん混じっていました。
藤五郎は、砂金を貧しい人に分け与え、里の人はみんな幸せになりました。
芋を洗った沢を「金洗いの沢(かなあらいのさわ)」と呼ぶようになり、
加賀藩の初代藩主、前田利家(としいえ)が、地名を「金沢」に改めた、と言われています。
金城霊沢を守る白い龍
金城霊沢をおおう屋根を見上げると、白い龍がいます。
元々は、狩野探幽(かのうたんゆう)が描いた龍でしたが、老朽化により取り替えられ、地元画家、広田百豊(ひろたひゃくほう)の描いた龍に取り替えられました。