常磐ヶ丘の周辺

黄門橋(こうもんばし)、橋の向こうはあの世

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黄門橋

黄門橋は、常磐ヶ丘(ときわがおか)にある石の橋です。

橋の土台になっている石に対してナナメに橋が架かる、という、日本庭園のつくりとしてはとても珍しい橋です。

黄門橋、と呼ばれていますが、この橋の本当の名は・・。

黄門橋の名前の由来、表向き

観光ガイドさん達の案内では、
『こちらの黄門橋は、三代藩主、前田利常公の役職が、中納言(ちゅうなごん)であったことから、黄門橋と呼ばれています。
黄門という呼び名は中納言の中国での役職名で、黄門様、水戸光圀(みとみつくに)公も、水戸藩の中納言でありました。では渡りましょう・・。』

と言うような説明をしています。

この案内は、兼六園が一般開放された後に作られた観光客向けの案内です。

簡潔でわかりやすく覚えやすい、ガイドさんも覚えやすい、黄門橋を簡潔に紹介するための表向きの由来なのです。

黄門橋の名前の由来、裏

黄門橋は、五代藩主、前田綱紀(つなのり)が、白山麓の吉野谷村(よしのだにむら:石川県白山市)にある名勝、黄門橋を模して作った、と言われています。

その時の橋の名前は「黄門橋」。

その後、橋だけを残して周囲の建物が焼失したため、十一代藩主、前田治脩(はるなが)以降に、謡曲「石橋(しゃっきょう)」に見立てて整備されたようです。

謡曲「石橋」には橋の名前は出てこないため、ただの「石橋(いしばし)」と呼ばれるようになり、明治時代には橋の名前を「黄門橋」に戻し、現在に至っています。

謡曲「石橋(しゃっきょう)」とは

十一代藩主、前田治脩(はるなが)は、黄門橋のある場所周辺を、謡曲「石橋(しゃっきょう)」の一場面として整備しています。

謡曲「石橋(しゃっきょう)」の一場面。

・・寂昭法師が唐に渡り巡礼した後、現世と浄土をつなぐ石橋にたどり着く。

法師が橋を渡ろうとすると童子に止められる。

童子は、
「石橋は幅が狭く苔に覆われて滑りやすい。
橋の下の谷は深く、足がすくみ並みの修行僧では渡れない。
しかし橋の向こう側は浄土であるから、ここで待てば菩薩如来が現れるだろう。」
と言って立ち去る。

寂昭法師が言われたとおりに待っていると、
石橋の上に、菩薩の乗り物である獅子が、咲き乱れる牡丹とたわむれ、現れる・・。

 
 
実際の黄門橋を見てみると・・。

菩薩の乗り物である獅子は獅子巌(ししいわ)。足がすくむほどの深い谷は、白龍湍(はくりゅうたん)。現世と浄土をつなぐ石の橋が黄門橋、というわけです。

黄門橋の真下。高さ1mほど。

足元に気を付けて渡るよう看板がありますが、まれに落ちる人、転落防止の手すりや柵が無いと怒る人がいるとかいないとか・・。

だるま
だるま
兼六園はテーマパークではありません。自分には渡れないな、と思ったら渡らなくてもいいんですよ。

獅子巌についてはこちら。

白龍湍についてはこちら。

また、黄門橋からは、栄螺山(さざえやま)の頂上ある三重宝塔が見えるよう、樹木が配置されています。

三重宝塔は十二代藩主、前田斉広(なりなが)の供養塔なので、石橋の向こうの浄土を表す、という演出になっています。

観光客の皆様に「石橋を渡った先はあの世です、さあ渡りましょう!。」とは言えません。

「吉野谷村の黄門橋を模して作られました」、と案内しても、獅子巌や白龍湍は何?。という矛盾が生じる・・。

というわけで、それっぽい由来が作られた、というわけです。

こちらは、能:石橋のダイジェストです。謡曲ではありませんが場面は同じです。

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