兼六園の歴史

兼六園を作った殿様達

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歴代藩主によって造られた兼六園

兼六園は、400年ほどの歳月をかけて、加賀藩の歴代藩主によって造られ、改良されて、現在の姿になっています。


illustration by いらすとや

加賀藩の祖、前田利家(としいえ)が金沢城に入城した頃(1583年)、
もちろん、兼六園は影も形も無く、
現在の金沢城側と兼六園側の斜面の間は、
蓮(ハス)の生えるような湿地で、「蓮池(れんち)」と呼ばれていました。

蓮池は金沢城の堀として利用されて明治時代まで水が張られていましたが、今は道路です。

兼六園から金沢城跡公園へ行くときに渡る橋の下の道路が、金沢城のお堀でした。

兼六園の成り立ちを、歴代の加賀藩主を軸に見て行きましょう。

二代藩主:前田利長(としなが)

1596年、
二代藩主、前田利長(としなが)が、明(中国)から招いた儒学者、王伯子(おうはくし)のために蓮池の兼六園側の斜面に屋敷を作り住まわせる。

これがもっとも古い兼六園の始まりといわれています。

1601年、
加賀藩前田家に、江戸幕府から謀反の疑いがかけられ、前田家お取り潰しの大ピンチとなります。

初代藩主、前田利家の正室、まつ(芳春院)が江戸に人質に行くことになり、
入れ替わりに、
前田利長の弟、前田利常(としつね:後の三代藩主)に、徳川家康の孫、珠姫(たまひめ)が嫁ぐことに。

珠姫と共に江戸から付いてきた家来たちを住まわせるため、蓮池の兼六園側の斜面に江戸町と呼ばれる長屋が作られる。

玉姫の家来達の住まいがあった江戸町の長屋は、現在のお土産屋さんが並ぶ場所にありました。

江戸からはるばるやって来た珠姫はわずか3歳でした。

徳川家康は孫娘のためにたくさんの家来を付けさせ、花嫁行列はたいへん華やかで長大だったといわれています。

金沢市で6月に行われる「百万石まつり」は前田利家公入城のお祭りであり、大名行列は玉姫の花嫁行列を模したもの、とされています。

三代藩主:前田利常(としつね)

1596年、三代藩主、前田利常(としつね)が、金沢城に水を引くために、板屋兵四郎に命じて辰巳用水を作らせる。

1662年、
三代藩主、前田利常(としつね)の正室、珠姫(天徳院)が24歳で亡くなる。
珠姫と共に江戸からやって来た家来はすべて江戸に帰ってしまった。

家来が江戸へ帰ってしまい、無人となった江戸町は、作事所(お城の建築作業や修繕をする役所)や、職人たちが住む場所として利用されました。

京都からやってきた金工の名人、後藤顕乗、後藤呈乗親子もここに住んでいました。

後藤顕乗、後藤呈乗親子は、夕顔亭にある「伯牙断琴の手水鉢(はくがだんきんのちょうずばち)」を作った彫り物の名人です。

夕顔亭にある「伯牙断琴の手水鉢」。

五代藩主、前田綱紀(つなのり)

1676年、
蓮池庭に、御亭(おちん:中国語であずまやのこと。庭園にある休憩所。)
を建てたのを始まりに、徐々に庭園として整備されます。

五代藩主、前田綱紀(つなのり)は、自分の別荘として蓮池御殿や4つの茶室、蓮池庭と呼ばれる庭を造りました。

五代藩主、前田綱紀(つなのり)は名君として知られ、こんな話が残っています。

前田綱紀(つなのり)は、参勤交代の帰りに領内に飢饉で乞食があふれているのを見て驚き、米蔵を開いて領民に分け与え、留守居役の役人を解任。
次の年の稲が実るまで城に帰らず、蓮池御殿で政事を行ったという。

前田綱紀(つなのり)の作った蓮池御殿も茶室も、後の大火で燃えてしまい、前田綱紀(つなのり)の作ったもので残っているのは、黄門橋とひさご池だけです。

案内人
案内人
噴水の前にある「時雨亭跡」という空き地は、蓮池御殿があった場所です。名君だった綱紀(つなのり)の威徳を偲んで、空き地となっています。
時雨亭跡(しぐれていあと)、遺徳を偲んで空き地に

十一代藩主、前田治脩(はるなが)

十一代藩主、前田治脩(はるなが)は、蓮池御殿が燃えた大火の後、長年ほったらかしにされていた蓮池庭の復旧にとりかかります。

1774年、兼六園の四亭、「高之亭(時雨亭)」、「舟之亭」、「内橋亭」、「夕顔亭」が造られます。

「高之亭」、「舟之亭」、「内橋亭」は、移築されたり、取り壊されたりしていますが、作られた当時と同じ場所に建ち、建物も当時のまま保存されているのが「夕顔亭」です。

築240年の夕顔亭。翠滝(みどりたき)も夕顔亭とともに造られています。

内橋亭は元の場所(江戸町か?)から移築されて、霞が池にあります。

十二代藩主、前田斉広(なりなが)

1822年、
十二代藩主、前田斉広(なりなが)は、自分の隠居後の住居として、千歳台に竹沢御殿を建てます。

竹沢御殿の座敷から見える庭園として造られたのが、七福神山、雪見橋、雪見灯篭、雁行橋などの日本庭園セットです。
奥座敷から見える築山として造られたのが、霞ヶ池にある蓬莱島です。
鎮守として金沢神社も作られました。

十二代藩主、前田斉広(なりなが)は、竹沢御殿とその庭園をいたく気に入り、遠く水戸藩の元藩主、白河楽翁(松平定信)に庭園の命名を依頼します。

白河楽翁から送られてきた名前が「兼六園」でした。

十二代藩主、前田斉広(なりなが)は、竹沢御殿に入居して2年後に亡くなります。

さざえ山にある三重塔は、十二代藩主、前田斉広(なりなが)の供養塔です。

十三代藩主、前田斉泰(なりやす)

1837年、
十三代藩主、前田斉泰(なりやす)は、竹沢御殿を取り壊しながら、千歳台の作庭を進めます。

竹沢御殿の庭にあった池を掘り下げて霞ヶ池を造り、残土でさざえ山を、蓮池庭と千歳台を調和するように作庭しました。

1863年、前田斉泰(なりやす)は、母親である真龍院の隠居屋敷として巽御殿(たつみごてん)を作ります。巽御殿の一部は、成巽閣(せいそんかく)として今も残っています。

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