明治記念之標
千歳台にあるでっかい銅像は、明治記念之標(めいじきねんのひょう)です。
明治記念之標は、明治時代に起きた西南戦争(西南の役)の県内戦死者を弔うための忠魂碑(ちゅうこんひ)です。
現在は立入り禁止ですが、当時は遺族が集まって供養祭が行われたり、献花台で手を合わせることができました。(今は行われていません。)
階段がありますが登ってはいけません。立入り禁止の竹囲いがあります。
階段の周りをぐるりと囲む石垣は高さ1m、金沢城の玉泉院丸庭園にあった庭石で作られていて、福浦(能登福浦海岸)から取り寄せたもの。
石の柵の中には石碑が14個立てられ、真ん中に石組みの石垣を積んで、その上に高さは5.5m。重さは5.5tの銅像が立っています。
西南戦争と兼六園
明治記念之標は、西南戦争の県内戦死者を弔うために、1880年(明治13年)に作られたの忠魂碑(ちゅうこんひ)です。
西南戦争(西南の役)は、1877年(明治10年)、西郷隆盛ら九州の士族と明治政府が戦った戦争です。
石川県(金沢藩、大聖寺藩)からは、約1200名が明治政府側として従軍し、西郷さんの軍隊と戦いました。
そのうち、田原坂の戦いで390人の戦死者がでています。
銅像の下には、390名の戦死者の名前を刻んだ碑や、献花台があります。
なんで兼六園に西南戦争に関する銅像が建っているのかというと、
「兼六園以外に、こんなでっかい銅像を建てる場所が見つからなかったから」。
冗談みたいな本当の理由です。
銅像のモデル
銅像の高さは5.5m。重さは5.5t。
モデルとなった人物は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト、倭建命)です。
日本書紀とか日本神話にでてくる、有名なあのヤマトタケルです。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、架空の人物ではなく、第12代、景行天皇(けいこうてんのう)の皇子で、第14代、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の父です。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、九州の豪族、熊襲(くまそ)を討伐するために、大和朝廷から派遣された軍人の筆頭だったため、西南戦争=九州討伐のシンボルとして、銅像のモデルに選ばれたのです。
髪型と着物の秘密
銅像の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は大和朝廷の時代の人なのに、銅像は、ヒミコ様ぁwのような髪型をしていません。着物も左前です。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、手ごわいと有名だった熊襲(くまそ)を成敗するため、女装をして酒をついで回り、酔った熊襲の寝込みを襲ってようやく討ち取った、と言われています。
髪の毛を下ろし女物の首飾りをつけて着物姿なのは、この神話が由来となっているからです。
「女装した下膨れのオッサン、刀を振り回す」、の銅像。
正直、ぶさいく・・。
刀は伝説の宝剣、草薙の剣
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が持っている刀は、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)です。
銃刀法違反ではありません。伝説の宝剣なの。
日本書紀によると、
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、奥さんの住む熱田神宮に草薙の剣を置いたまま、滋賀県の伊吹山(いぶきやま)に神様退治に出かけます。
目の前に現れた神の化身である白猪を神の使いと勘違いして「使いごときに用はない」と無視したため、白猪(神様ご本人)相手に刀無しの丸腰で戦うはめになり、殺された、とあります。
別の説では、
東北の蝦夷(えぞ)征伐に続き、九州の熊襲(くまそ)征伐、伊吹山の神様退治と、休む暇なく大和朝廷にコキ使われたため過労死した、とも言われています。
銅像の作者について
銅像が建てられたのは、明治13年10月26日。
日本の銅像は、奈良の大仏のように屋内に建てられるのが普通ですが、兼六園の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、初めて屋外に建てられた銅像(立像)です。
銅像の作者は、富山県の工人、金森藤兵衛です。
富山県で出来上がった銅像は3パーツに分けられ、わざわざ倶利伽羅峠(くりからとうげ:石川県と富山県の県境)を越えて運ばれてきました。
じつは、銅像は、まったく別の作者が作る予定でした。
兼六園に銅像を作るにあたり、最初に原型を依頼されたのは、金沢の仏師、松井乗運(まついじょううん)です。
当時、松井乗運は売れっ子の仏師で、京都の東本願寺には松井乗運作の仏像や彫刻が多く残っています。
原型は出来上がったものの、松井乗運の日本武尊は銅像にはされませんでした。
「有力者一、二の反対の声」で採用されなかった、との記録が残っています。
当時、石川県と富山県はあまり仲が良くなかったため、「金沢の作家っちゃ、銅像にしてやらんがやちゃ!(富山弁)」、みたいのが、あったとかなかったとか・・。
松井乗運作の日本武尊の木像は石川県立美術館にあります。(展示はされていない模様)
資料で見る限り、兼六園の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を「タケルちゃん」と呼びたくなるほど、神々しく、凛々しいです。
銅像に鳥がとまらない謎
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の銅像は銅でできています。
一般的に、屋外の銅像は鳥のフンだらけになって、えらいことになります。
しかし、兼六園の日本武尊の銅像にはフンが付いていません。銅像を磨いたことは一度もないそうです。
園内には野鳥がたくさんいます。ハトもたくさんいますが、この銅像には止まりません。
カラスですら止まりません。
鳥が止まらない理由はまったくわかっておらず、銅の中に鳥が嫌う成分が含まれている、とか、怪しい結界が張られている、とか、タケルちゃんの怨念、など、色々な伝説があります。
難しいことは抜きにして、銅像が園内中の鳥に嫌われている、ということでしょう。
顔がむくんで、はれぼったく見える日があるタケルちゃん。
鳥に嫌われて寂しいので、三竦み(さんすくみ)を連れて夜の片町に飲みに行っている、という噂もあります。
※片町:かたまち。金沢の繁華街。
兼六園の三竦みについてはこちら。
兼六園の三竦み(さんすくみ)、崩れない台座の謎
日本武尊の願い
日本武尊の銅像は刀を持っているので、軍国主義の象徴として、撤去を求められたこともありました。
あの刀は、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)で、日本武尊とワンセットなので持っていて当たりなもの。
刀がうんぬんよりも、
この銅像は、西南戦争のような、国民同士が争う悲惨な戦争を二度と起こさない、という平和の象徴として作られています。
また、ナメクジ、ガマ、ヘビの三竦みが台座にいるのも、互いに牽制して事を起さない、という意味があるとわれています。
タケルちゃんは平和の象徴なのです。