兼六園の歴史

兼六園の水源と板屋兵四郎

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兼六園の水源は用水路

兼六園は海抜53mの高台にありますが、水が豊富です。

曲水が流れ、池があり、噴水があり、滝となって落ちています。

江戸時代につくられた庭園なので、水を流すための電気や動力などは使われていません。

兼六園の水はどこから来ているのかご存知でしょうか?。

水源は辰巳用水

兼六園を流れる水は、
兼六園から南にある「犀川(さいがわ)」という川の上流にある、「上辰巳(かみたつみ)」という場所から、「辰巳用水(たつみようすい)」という用水路を通って流れて来ています。

園内にある沈砂池は、辰巳用水から来た水に混じっている砂や泥を落として澄んだ水にする役割をしています。

江戸時代初期(1632年)に作られた辰巳用水は、金沢城まで水を引くために作られた用水で、兼六園内を流れる曲水や池は、辰巳用水を利用して歴代の加賀藩主が作り上げてきたものです。

だるま
だるま
辰巳用水を作らせた三代藩主、前田利常(としつね)は、江戸幕府に「(1631年に「宝舟寺大火」と呼ばれる火事があったため)金沢城の防火を目的に辰巳用水を作ります」、と許可を求めていますが、これは建前で、実は金沢城の堀に水を満たすことで防御力を高め、城内に常に水を確保できるようにすることで戦に備えるためだった、と言われています。

兼六園内の曲水、池、噴水などの水の流れは当時のまま使用されているので現在も、ポンプなどの動力は使われていません。

兼六園にある、江戸時代後期(1861年)に作られた噴水。
作られた当時のまま稼働する噴水としては国内最古といわれています。

辰巳用水を作った町人

辰巳用水を作ったのは、小松の町人で、土木技師でもあった板屋兵四郎(いたやひょうしろう)です。

小松(こまつ)とは、石川県小松市。義経と弁慶の勧進帳(かんじんちょう)の舞台となった安宅の関(あたかのせき)があった場所。

1632年、
板屋兵四郎は、用水を開削して水田の灌漑(かんがい)を進めた実績を認められ、三代藩主、前田利常(としつね)の命を受け、金沢城に水を引くために辰巳用水を作ります。

たった1年で、総延長10kmにもなる辰巳用水が作られました。

「加賀の四度飯(かがのよんどめし)」といわれた突貫工事で、日に4回の飯を食わせて昼夜問わず作業を進めた、という話が残っています。

案内人
案内人
辰巳用水は、有名な箱根用水よりも34年も前に作られています。

 

辰巳用水についてもっと知ることができるサイトです。
水土の礎|一章 辰巳用水の才
 
金沢観光情報:辰巳用水

 
 
板屋兵四郎は、土木技術の技術者集団をまとめるリーダーであったらしく、辰巳用水には水の性質を知り尽くした高い技術が使われています。

水を通すためのトンネルを掘り、自然の勾配を利用し、地下に通した木管や石管にカーブをつけて水圧を調整するなど、緻密な細工が施されています。

消された?、板屋兵四郎のその後

三代藩主の命を受けて辰巳用水を完成させるという偉業を達成しましたが、その後、板屋兵四郎については何の記録も残っていません。

板屋兵四郎は、辰巳用水の完成後まもなく処刑されたのではないか、と言われています。

金沢城内への水の流入経路をバラされないために口封じで殺された、とも、
町人が高度な技術を持っていたのでは、後に災いになるので処刑された、
一向一揆の根城であった本願寺の門徒であったため処刑された、などの説があります。

これは眺望台にある水道の遺構です。ここから地中の木管(のちに石管)を通して金沢城へ水が流れていました。

現在は竹製のフタがあるだけで囲いも何もありませんが、江戸時代は取水口は二重の土塀で囲まれ、門番が立ち、厳重に管理されていました。

また、辰巳用水の水源である上辰巳にも、取水口を守るための門番がいました。

水源に毒物を入れられたり塞がれたりすると、簡単に城が落とせるので、水源に関係する情報は最重要機密事項だったのです。

板屋神社

金沢市上辰巳町と袋町には、板屋兵四郎を主祭神とした神社があります。

板屋兵四郎の死後に災害が頻発したため、祟り(たたり)を恐れて作ったとも、板屋兵四郎を慕っていた地元民が死を悼んで作ったともいわれています。

兼六園の金沢神社にある、板屋神社の遥拝所(ようはいじょ)。

板屋兵四郎の御神像が奉納されています。

金沢神社の石の鳥居の左側、苔地の奥にある小さい祠が遥拝所(ようはいじょ)です。

案内人
案内人
遥拝所というのは、神社の出張所みたいなものです。

遥拝所があるのは神社の敷地内なので、許可無く遥拝所の前まで立ち入ることはできません。

遠くから手を合わせるだけでもバチはあたらないと思います。

板屋兵四郎の作った辰巳用水は、今も兼六園を曲水となって流れ、池をつくり、噴水を吹き上げ、滝となって落ち、
金沢城を流れ、金沢市内へと流れ、農地を潤す命の水となっています。

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