霞ヶ池の周辺

栄螺山(さざえやま)、穴生衆が造った弔いの山

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栄螺山

栄螺山は、霞ヶ池の内橋亭(うちはしてい)の隣にある、階段がぐるぐると続く目の回る小山です。

栄螺山の由来

栄螺山は、十三代藩主、前田斉泰(なりやす)が、竹沢御殿を取り壊す際に、御殿にあったいくつかの池を掘り下げて霞ヶ池をつくり、残土で作った山です。

つぼ焼きが美味しいサザエの殻のように、階段がぐるぐると巻いているので、栄螺山(さざえやま)と呼ばれます。

栄螺山の上から見る景色

栄螺山に上ると、霞ヶ池が一望できます。

お天気が良い日か、秋の紅葉の時期がオススメです。

弔いのための山

栄螺山の階段を登ると、狭い頂上に石の塔があります。十二代藩主、前田斉広(なりなが)を弔う三重宝塔です。

三重宝塔は、近江国(滋賀県)から連れてこられた「穴生衆(あのうしゅう)」と呼ばれる石工の集団が作ったとされています。

穴生衆(穴太衆)は、石垣作りの技術に秀でた集団で、安土城、名古屋城、江戸城などの石垣を作ったのも穴生衆です。

金沢城の石垣にも穴生衆が作ったとされる部分が残っています。

案内人
案内人
三重宝塔に一円玉を投げたり挟んだりする人が激増しましたが、塔の意味を知らない外国人観光客から始まったものです。他人様の墓所や供養塔に投げ銭して願掛けすることが気持ちの良い事かどうか、よく考えてみましょう。

宝塔の中には、巻物、仏舎利(十二代藩主の遺骨の一部)、由来を書いた銅版、桜の木で作った如来像などが納められていた、とされていますが、いつの頃からか持ち出され、行方不明になっています。

栄螺山の石垣

石垣部分のてっぺんにある唐傘は、避雨亭(ひうてい)とも呼ばれ、園内を散策する際に、殿様が雨宿りするためのものです。

てっぺんに避雨亭(ひうてい)があるので、栄螺山は、唐傘山(からかさやま)とも呼ばれます。

栄螺山の石垣は、金沢城の石垣とおなじ造りになっていて、穴生衆が作ったとされる非常に貴重なものです。

石垣を保護するために、唐傘部分へは、立ち入り禁止になっています。

栄螺山の石垣を下から見たもの。

石が一個、二個抜け落ちている部分があり、ちょいちょい崩れている模様。

石垣の保護だけではなく、リアルに落石して危ないので唐傘部分への立入りは禁止です。

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