竹沢御殿
竹沢御殿とは、かつて千歳台一帯にあった広大な屋敷です。
現在は取り壊されてしまいましたが、そもそも「兼六園」という名前は竹沢御殿の庭園に付けられた名前でした。
4000坪の御殿
竹沢御殿は、1822年に十二代藩主、前田斉広(なりなが)が作った屋敷です。
建坪だけで約1万3000平方メートル(約4000坪)。
現在の兼六園内の場所で例えると、霞ヶ池~千歳台~梅林の一部~成巽閣~小立野料金所~梅林の一部までの範囲が屋敷だった、ということになります。
簡単にいうと、現在の兼六園の半分が竹沢御殿とその庭だった、ということに・・。
兼六園の大きさは東京ドーム2.5個分、とされているので、東京ドームと同じくらいの敷地が屋敷。
竹沢御殿には、200の部屋、4つの能舞台があった、とされています。
屋敷だけでなく庭園も豪華なもので、
千歳台にある七福神山が屋敷正面の築山、霞ヶ池の蓬莱島は奥座敷の築山、屋敷の中庭に植えられていたのが塩釜桜でした。
七福神山の周辺に、庭石や石塔、曲水、雪見橋、雪見灯篭、雁行橋など、日本庭園の定番がセットになっているのは築山だったなごりです。
七福神山(しちふくじんやま)、築山の七福神はどこ?
霞ヶ池にある蓬莱島は、竹沢御殿の奥座敷から見る築山でした。
蓬莱島(ほうらいじま)、霞が池の小島の由来
金沢神社も竹沢御殿周辺の鎮守として造られ、隣接する鳳凰山も築山として作られたものです。
鳳凰山(ほうおうざん)、鳳凰舞い降りる姿も今は無く・・
竹沢御殿が出来上がるのを心待ちにしていた十二代藩主、前田斉広(なりなが)は、出来上がった竹沢御殿と庭園をいたく気に入り、当時、博識で有名だった元水戸藩主(白河楽翁)に、庭園の命名を依頼しています。
庭園に付けられた名前は「兼六園」でした。
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兼六園の名付け親と六勝
エンジョイ、隠居生活
なぜこのような豪華な御殿が作られたのか。
隠居生活をエンジョイしたかったからです。
隠居生活と聞くと、水戸黄門のようなおじいちゃんをイメージしますが、十二代藩主、前田斉広(なりなが)が隠居した年齢は36歳です。
若くして隠居して趣味に生きる、という男のロマンを、竹沢御殿に詰め込んだわけです。
竹沢御殿には、広敷(ひろしき)と呼ばれる大奥みたいな組織もバッチリ作られていました。
梅林から小立野口にかけて一直線の廊下(500mくらいか?)があり、廊下の左右に側室の部屋が20室並んでいたといわれています。
しかし、隠居生活は長く続かず、十二代藩主、前田斉広(なりなが)は、竹沢御殿に住んで2年後、41歳で亡くなっています。
流行り病にかかったと言われていますが・・夜のエンジョイ♥生活が祟ったんじゃ・・
その後の竹沢御殿
十二代藩主、前田斉広(なりなが)の死去後、父に代わって藩主となった十三代藩主前田斉泰(なりやす)は、すぐに竹沢御殿を取り壊しにかかっています。
藩政を押し付けて隠居しやがって親父のバカー、コノヤロー!というわけではなく、藩の財政が厳しくなっており、民衆の不満が強くなっていたためです。
ただ取り壊すのではなく、先代藩主の遺徳を偲んで作庭を進めていったことがわかる遺構が、地蔵堂と根上りの松です。
先代の亡くなった場所(寝所)を踏まれないように建てられたのが地蔵堂。
地蔵堂(じぞうどう)、竹沢御殿の夢の跡
竹沢御殿の跡として、自らが手植えしたのが根上りの松です。
根上の松(ねあがりのまつ)、根っこアゲアゲ運気もアゲアゲ
取り壊した御殿と成巽閣
十三代藩主、前田斉泰(なりやす)は、竹沢御殿を取り壊しながら千歳台の作庭を進め、名前も”竹沢御殿"から”竹沢御屋敷”、最後にはただの”御書斎”に改めました。
それでも、20室と能舞台がまだ残っていたといいます。
御書斎も全面的に取り壊し、廃材の一部を利用して作られたのが、巽御殿(たつみごてん)です。
現在の成巽閣(せいそんかく)は、巽御殿の一部です。
成巽閣(せいそんかく)、兼六園の赤門
竹沢御殿の奥座敷の築山だった蓬莱島と周辺にあった小さな池は掘り下げられ、一つの大きな池=霞ヶ池になり、掘り下げられた残土を積み上げて、さざえ山(栄螺山)が作られました。
栄螺山(さざえやま)、穴生衆が造った弔いの山
巽御殿
巽御殿(たつみごてん)は、江戸の加賀屋敷から帰郷して隠居した真龍院(十三代藩主、前田斉泰(なりやす)の継母)のために作られたものです。
竹沢御殿の正門、辰巳御門
竹沢御殿の表門には、(たつみごもん)という豪華な正門がありました。
辰巳御門は壊されずに現在の蓮池門に移築され、明治時代まで残っていた、といわれています。
辰巳御門には、白河楽翁から送られた「兼六園」の扁額が飾られていたと記録されています。(扁額は園内の方へ向いて飾られていたことが分かっています。)
後に辰巳御門は老朽化のために取り壊されて無くなってしまいましたが、辰巳御門に飾られていた扁額だけは残っていて、パンフレット表紙を飾っています。
実物の扁額は、産業工芸館にあります。